【状態】痛み、ヤケ、28×40cm
【解説】
明治時代から昭和にかけて、小高俊海という医師に関する、一連の資料である。
『自治公論 (12月號)』(全国町村長会、1942年)によると、彼は千葉県夷隅郡国吉長の町長をつとめた経験をもつ。
【1】医術開業免状
内務大臣の原敬(1856~1921)が署名している点が、注目される。
免状によると、小高医師は明治10年(1877)12月千葉県生まれで、明治34年(1901)に千葉医学専門学校(のちの千葉大学医学部)を卒業した。
この免状は明治39年(1906)3月9日付であるが、これはこの年に医師法が制定されたことに関連すると考えられる。
医師法が制定される以前は、医術開業試験は医学部を卒業していなくても受験できた。
野口英世のような著名な医学博士も、医学部を卒業せずに医師免許を取得している。
それが医師法の制定後は改められることになり、大正5年(1916)、医術開業試験は廃止された。
【2】履歴書
小高医師の経歴が記されている。
明治26年(1893)開成中学に入学し、明治30年(1897)第一高等学校医学部(のちの千葉医学専門学校)に入学、明治34年(1901)に卒業している。
戦前の旧制中学は五年制だが、四修(四年生で飛び級して進学する)も可能だった。
開成中学から四修で医専に入学した小高医師は、学力優秀であったことがうかがえる。
医専を卒業してすぐに「志願兵」として陸軍の近衛歩兵第一連隊に入隊、一年ほどで除隊している。
除隊後まもなくの明治36年(1903)1月、国立の伝染病研究所に入所するが、9月には医官として再び近衛歩兵第一連隊に配属、11月には除隊している。
明治37年(1904)2月、陸軍三等軍医に任じられ、近衛師団衛生予備員として、日露戦争に出征している。
明治39年(1906)4月、召集を解除されて除隊し、5月から明治41年(1908)2月まで、奈良県検疫官・恩給顧問医をつとめ、3月に千葉県立病院に勤務する。
明治43年(1910)、論文を提出して、千葉医学専門学校 医学士の称号を得る。
その後、千葉県夷隅郡国吉町苅谷で開業し、小学校の校医を同時につとめながら、夷隅郡医師会会長、千葉県医師会理事などを歴任している。
この履歴書が書かれたのは、昭和6年(1931)2月14日、彼が53歳のときである。
【3】病院設置届
小高医師の病院に関して、さまざまな情報が記されている。
昭和8年(1933)1月付であるが、小高医師は明治45年(1912)から、医院を開業していたという。
診療科目は、内科・小児科・産科・婦人科で、名前は杏春堂医院、のちに杏春堂病院といった。
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