【激動の時代ならではの変遷】
第1次世界大戦中からベトナム戦争の時代まで、半世紀に渡って活動したブダペスト弦楽四重奏団は、「ハンガリー政変」「ソ連成立」「ナチス台頭」「第2次大戦」という4つの大きな歴史的事件の影響を受け、さらにそこに、「奏法」や「言語」の相違といった事情も絡み合って、本拠地やメンバーが変遷、半世紀の在籍人数は11人に達しています。
【ハンガリー産カルテット】
「ブダペスト弦楽四重奏団」の結成は、第1次大戦中の1917年のことで、メンバーは4人ともハンガリー国立歌劇場管弦楽団の楽員でした。
当時、戦争によって歌劇場での演奏機会が大幅に少なくなり、収入減も深刻化しつつあったため、演奏に際して場所の制約や経費が少なく、公演回数も多くこなせる「弦楽四重奏団」の活動は魅力的だったようで、翌1918年には、同じハンガリー国立歌劇場管弦楽団の楽員によって有名な「レナー四重奏団」が結成されてもいます。
「ブダペスト弦楽四重奏団」の場合、設立者がオーケストラ楽員という対等な関係にある4人のメンバーで、かつ第1ヴァイオリン奏者が最も若かったことから、4人の関係は対等なものとなり、それが結果的にブダペスト弦楽四重奏団を近代カルテットの始祖という位置に押し上げることになります。
それまでの弦楽四重奏団の多くは、第1ヴァイオリンがリーダーで決定権を持ち、報酬も多いというのが常識でした。特に19世紀はすごいものがあり、たとえばヨアヒム四重奏団は、ヨアヒムが公演の都度、ほかの3人のメンバーを募集して雇うというスタイルで運営されており、シュポーアのカルテットに至っては、シュポーアのみ立って演奏するということで、ほかの3人はまるで「伴奏」という扱いでした。
ブダペスト弦楽四重奏団の場合は、対等な立場のオーケストラ楽員が、当初は「副業」として結成したため、報酬分配も当然ながら平等で、異なる意見が出た場合も、多数決できっぱり判断し、同数の場合は現状維持とするという方針を決めていました。
こうした基本方針の存在が、アンサンブルの精度の向上や、奏法選択の合理性を生み出し、やがてメンバー交代に耐えられる実力を築き上げることにも繋がっていったようです。
結成の年の12月と翌年の1月の実演で順調なスタートを切ったブダペスト弦楽四重奏団は、ほどなくハンガリー国立歌劇場を全員退職して、弦楽四重奏団だけで食べて行く道を選び、演奏の精度を上げるためさらに基本方針を追加。主なものをまとめると以下のようになります。
●報酬は平等に分配。
●意見の相違があった場合は、なにごとも多数決で決定。
●契約期間は1年とし、毎年メンバー全員の合議で更新。
●ソロや他のアンサンブルでの演奏、教育活動など副業の禁止。
●リハーサルや運営方針策定に、団員以外の人間を関わらせない。
これらの基本方針の多くは長期間に渡って遵守され、ブダペスト弦楽四重奏団の演奏水準の向上と維持に大きく貢献することとなります。ちなみに基本方針と謳われていたわけではありませんが、半世紀の間に在籍した計12人のメンバーは、全員がユダヤ系でした。もっとも、当時のヨーロッパでは優秀な弦楽器奏者の多くはユダヤ系という状態だったようなので、それも不思議なことではなかったのかもしれません。
【ハンガリー勢からロシア勢へ】
ハンガリー勢で固められていたブダペスト弦楽四重奏団に、変化のきっかけが訪れたのは結成10年目のことでした。1927年、第2ヴァイオリン奏者のポガニーが、指揮者フリッツ・ライナーからの引き抜きでシンシナティ交響楽団の第2ヴァイオリン首席奏者になるべく渡米してしまったため、急遽メンバーを探す必要に迫られた彼らは、知人を介して、ソ連を逃れてベルリンに来ていたロイスマンと契約を結びます。
名ヴァイオリニストの一大産地でもあるオデッサから来たロイスマンは、技術的に優秀で、19世紀的な手法を好んでいた第1ヴァイオリンのハウザーと、奏法をめぐって頻繁に衝突、ときにはヴィオラのイポイーも交えた揉め事にも発展していたため、年長でおだやかなチェロのソンは耐えられず3年後の1930年にパレスチナ行きを決めて退団。
後任として採用されたのは、ロシア帝国生まれながら17歳からドイツに移り住んでいたミッシャ・シュナイダー。これでハンガリー勢2人にロシア勢2人という状態になり、ロイスマンの旧奏法批判はさらにエスカレート、2年後の1932年には第1ヴァイオリンのハウザーが、パレスチナ音楽院創設の道を選んで退団。
ハウザーの後任問題はロイスマンが第1ヴァイオリン奏者になることで解決し、第2ヴァイオリン奏者の後任としては、ミッシャ・シュナイダーが、弟のアレクサンダー・シュナイダーを入団させて決着。これでハンガリー勢1人にロシア勢3人という状態になり、リハーサルなどでロシア語が使用されることが多くなったこともあってか、4年後の1936年にはヴィオラのイポイーがノルウェーに移住するため退団。
後任として、ロシア帝国オデッサ生まれでベルリン在住、ロイスマンとは少年時代から交流のあったクロイトが入団。
結局、1927年から1936年の9年間で、メンバー全員が、ドイツに逃れてきていたロシア帝国出身者に交代して奏法の近代化を達成。彼らは全員ユダヤ人だったため、2年後の1938年には、ドイツを去ってアメリカに渡ることになりますが、すぐに実力が認められ、アメリカ議会図書館(下の画像)のカルテット・イン・レジデンスに任命、以後、放送の効果もあって、カルテットとしては異例の輝かしい成功を収めることになります。