東京海洋大学ですら第1巻しか所蔵していない問答無用の稀覯本ですが、それに加えてこちらのコピーは、幕末明治期のイギリスの外交官アーネスト・サトウ(1843-1929)の旧蔵本です。見返しには、「江戸の英国公使館アーネスト・メイソン・サトウ(ERNEST MASON SATOW British Legation YEDO)」の有名な蔵書票。そのうえには、サトウも設立に関わったロンドン日本協会(The Japan Society)のスタンプ。
Dunkerの「:Index molluscorum maris Japonici」と並ぶ、日本の貝類に関する最重要文献です。本書の作成にはPerry提督, von Sieboldtにより、採集された標本も用いられています。文献としての重要さのみならず、博物学書における版画技術の絶頂期の作品であり、 その多色石版刷による図版の繊細さには眼を奪われます。・・・掲載種は、ウチムラサキやクボガイ類など、本州沿岸の海岸で普通に見られる浅海域の貝類について多くの新種を報告しています。残念ながら、全3巻のうち、第1巻のみ所蔵しています。
サトウ
没年:1929.8.26(1929.8.26)
生年:1843.6.30
幕末明治期のイギリスの外交官。薩道と号す。ロンドンのクラプトンに生まれる。1859年夏ロンドンのユニバーシティ・カレッジに入学。2年で修了したころ,兄が借りてきたL.オリファントの《Narrative of the Earl of Elgin’s Mission to China and Japan in the Years 1857,’58,’59.》に魅了され,東洋に憧れる。まもなく外務省の通訳生試験に合格,61年8月20日,日本への通訳生に任命された。北京,上海を経て,文久2年8月15日(1862年9月8日)横浜に着任した。慶応1(1865)年4月横浜領事館付き日本語通訳官となり,翌年『ジャパン・タイムズ』に「英国策論」を発表,自ら日本語に翻訳した。それは,天皇を元首とする諸大名の連合体が将軍に代わって支配勢力になるべきという内容で,広く流布した。明治1(1868)年1月日本語書記官に昇任,翌年2月一時帰国ののち,同3年末に帰任。8年2月再び一時帰国し,10年3月帰任。15年12月31日離日した。1984年1月シャム総領事に任命され,はじめて全権の地位につき,85年2月公使に昇任,87年5月帰国し弁護士の資格を得る。ウルグアイ公使,モロッコ公使を務めたのち,日本駐在公使に任命され明治28年7月16日に来日。同33年5月4日離日し,10月26日清国公使として北京に着任,1906年7月帰国し,同年10月引退した。その死去に際して『タイムズ』は「偉大な極東外交官」とたたえた。『会話篇』,『英和口語辞典』,『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳,1960)をはじめ数多くの日本研究書を残す。<著作>長岡祥三・福永郁雄訳『アーネスト・サトウ公使日記』
(朝日日本歴史人物事典 「サトウ」の解説)
如因下列事件引致運送過程中導致貨品毀損、延遲,Jumppoint 皆不負任何責任︰
i. 包裝不穩固或未作加強而引致有破裂、毀損;
ii. 貨品性質為易燃、爆炸、發霉、腐壞、變色等;
iii. 易碎物品沒有標貼上「易碎標籤」;
iv. 無法預知或不可抗力因素,如交通事故、惡劣天氣情況等引起之阻礙或延遲;
v. 收件人聯絡電話不正確或無效等等。