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写真撮影の為、開封しただけで未使用です。 歴史 天津は隋代に大運河が開通し、南運河と北運河の交差地点の三会海口(現在の金鋼橋三岔河口)がその発祥である。唐代中期以降は南方からの食糧輸送基地となり、金代には直沽寨、元代には海津鎮が設置され、食糧輸送以外にも軍事拠点としての要衝とされた。 1400年(建文2年)、朱棣が兵を率いて南下、皇帝に即位すると、皇帝が河を渡った場所を意味する天津の地名が初めて登場した。1404年(永楽2年)、軍事基地としての衛が設置され、翌年には天津左衛が、更に2年後には天津右衛が設置された。1652年(順治9年)に清代により三衛が統合され天津衛とされ、1725年(雍正3年)に天津州、1731年(雍正9年)に天津府と改められ、天津府の下部に天津県・静海県・青県・南皮県・塩山県・慶雲県・滄州を管轄した。清末には天津は直隷総督の駐在地とされ、李鴻章や袁世凱による洋務派の拠点となった。 1858年(咸豊8年)、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で英仏連合軍に敗北し、天津条約が締結された。次いで締結した北京条約で1860年(咸豊10年)に天津は開港され、以後北京の外港として急速な発展を見た。このため19世紀後半から20世紀前半にかけて、イギリス、フランス、日本、ドイツ(第一次世界大戦の敗北により1919年に返還、消滅)、アメリカ(1902年にイギリスに併合され消滅)、ロシア、イタリア、ベルギー、オーストリア=ハンガリー(第一次世界大戦の敗北により返還、消滅)が相次いで天津租界を設置し、中国で最も租界の数が多い都市となった。1900年(光緒26年)に義和団の乱では八カ国連合軍が天津より上陸し、北京を占拠している。 中華民国が成立すると1927年(民国16年)に天津市に昇格、その後の日中戦争では1937年(民国26年)より1945年(民国34年)まで、イタリア租界を除き汪兆銘政権と日本軍により統治され、またイタリア軍のイタリア極東艦隊が拠点を置き日本とともに戦った。 戦後はアメリカ軍が駐留したものの、1949年に中華人民共和国が成立すると天津は直轄市に指定され、中華人民共和国の工業及び貿易の拠点として発展し現在に至っている。 >