横浜・坂本弁護士一家拉致事件 仔山羊の歌もういちど (坂本さちよ,勁文社,1990) オウム真理教事件
単行本ソフトカバー,18cm, 221ページ
ISBN-10 : 4766913418
ISBN-13 : 978-4766913415
出版社 : 勁文社 (1990/12/1)
目次
手記・仔山羊の歌もういちど
日記・怒りと悲しみ涙の365日
“真相”坂本堤弁護士事件追跡ドキュメント
(発生、そして一年;検証;坂本弁護士一家の素顔;
弁護士坂本像;民主主義の危機)
事実調査報告書
事件概要(Wikipedia)
坂本堤弁護士一家殺害事件(さかもとつつみべんごしいっかさつがいじけん)は、
1989年(平成元年)11月4日に旧オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた
弁護士であった坂本堤(当時33歳)と家族の3人を殺害した事件である。
「横浜法律事務所」に所属していた坂本堤弁護士は、江川紹子からの紹介で、出家信者の母親から息子のオウム真理教脱会について相談されたことがきっかけとなり、1989年(平成元年)5月からオウム真理教の反社会性を批判・追及し「オウム真理教被害者の会」を組織していた。同年9月、『サンデー毎日』で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判が強まる中、坂本弁護士も取材を受けるようになった。
オウム真理教に対して、批判的な記事を書いていた『サンデー毎日』の出版を差し止めるべく、出版元である毎日新聞社本社の爆破計画があった。2トントラックに爆弾を搭載し、輪転機がある(はずの)パレスサイドビルディング地下階に突っ込んで爆発させれば、サンデー毎日の出版を停止できるという計画だった。爆弾は村井秀夫が作る予定であった。しかし、トラックが地下に入れないことと、そもそもサンデー毎日がパレスサイドビルディング地下階の輪転機で印刷されているかが不明であったことにより、計画は暗礁に乗り上げた。
代替案として、直接爆弾を設置する計画があったが、早川紀代秀がオウム真理教のビラを千代田区一ツ橋の毎日新聞社に置いてきたため、証拠を残してしまうことから頓挫した。
同年10月26日、上祐史浩、青山吉伸、早川紀代秀は坂本弁護士のインタビューを撮影したTBSテレビに抗議して放送を中止させる(TBSビデオ問題)。インタビュービデオの中で坂本は、「信者の家族の苦しみが置き去りにされている」「宗教を利用したインチキ商法になっているのであれば断罪されるべき」「尊師に超能力で跳んだり透視するのを実演してほしいと頼んだが、それはできないとのことだった」「血のイニシエーションは詐欺」などと発言していた[7]。
上祐、青山、早川は10月31日には横浜にある坂本の事務所で訴訟回避に向けた交渉を行ったが、坂本は麻原のDNA培養物を高額で売りつける「DNAのイニシエーション」(オウム真理教の修行を参照)はインチキであり、京都大学が認めたなどと宣伝しているがそのような事実はなかったなどの指摘を行い、訴訟の意思を変えなかった。「信教の自由がある」という上祐に対し坂本は「人を不幸にする自由などない」と言って交渉は決裂する[8][9]。坂本弁護士はオウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入った。また被害者の会も「水中クンバカや空中浮揚を公開の場で行え」と要求してきた[4]。
同年11月2日または3日頃、麻原はオウム真理教幹部である村井秀夫・早川紀代秀・岡﨑一明・新実智光・中川智正をサティアンビル(後の第1サティアン)に集め、右手の親指と人差し指で輪を作ってはじく「ポアのサイン」をして、「もう今の世の中は汚れきっておる。もうヴァジラヤーナを取り入れていくしかないんだから、お前たちも覚悟しろよ」「今ポアをしなければいけない問題となる人物はだれと思う」と問い詰めた。
当初『サンデー毎日』の編集長を務めていた牧太郎を、帰宅途中に抑え込み殺害するという計画であったが、牧太郎は多忙ゆえ帰宅時間が分からず襲いにくいため、計画は立ち消えとなった。そこで麻原は「牧太郎ではない。坂本弁護士である」と言って突然標的を坂本堤に変更した。坂本は『サンデー毎日』のネタ元とされていた。なお早川紀代秀は、牧太郎でなくいきなり坂本の名前が出たと証言している。
そして麻原は「坂本弁護士をポアするんだよ」「ポアするんだよポア」「話しても無駄だから、ポアするんだ」などと言い、坂本弁護士を塩化カリウムで殺害するよう指示した(塩化カリウムは中川が以前勤務していた大阪鉄道病院から盗んだほか、村井も独自入手していた)。また、腕力のある人材が欲しくなったのでメンバーに端本悟も加え、端本には早川から「坂本堤という弁護士をただちにポアすることとなった」と伝えられた。
「坂本弁護士の活動は、真理党からの出馬を予定している翌年(1990年)の総選挙や、今後の教団の発展の障害となる」と考えたことが動機とされる。麻原の検察官面前調書によると、「自分(麻原)への誹謗中傷はいいが、真理への妨害は許されないため、坂本弁護士が悪業を積む前にポアした」と語っている[18]。
3日、熊本県在住の在家信徒の弁護士から坂本弁護士の住所を電話で聞き出し、午前9時頃に実行犯らは村井の専用送迎車だった日産・ブルーバードと、いすゞ・ビッグホーンに分乗し出発した。途中で杉並の教団マンション(カーサ上荻)にあった選対に向かい、2台の交信用の無線機を林泰男が用意し、ついでにかつらなどで変装した。村井は長髪、新実はアフロ、岡﨑は七三分けに眼鏡であったという。その後新宿でスーツなどを買い、横浜へ向かった。
予定では、坂本弁護士が通勤で利用する横浜市磯子区の洋光台駅付近で待ち伏せし、車に連れ込み塩化カリウムを注射して殺害し、遺体をそのまま運び去るものであった。しかしこの日は祝日(文化の日)であることを中川以外忘れていたため坂本弁護士は現れなかった。中川がそのことを指摘すると、新実は中川を指さして「かしこい」と褒めた。このため、同区にある坂本弁護士の自宅に向かう。
午後10時、岡﨑が坂本弁護士宅に向かうとドアに鍵がかかっていないことが判明した。早川がこれを麻原に電話連絡した。電話では、坂本弁護士の「付属物]」即ち家族をどうするかが検討された。麻原は「ほほう、そうか。じゃ、入ればいいじゃないか。」「(家族を巻き添えにすることは)しょうがないんじゃないか。一緒にやるしかないだろう。」と一家全員の殺害を命令した。麻原は検事調書の中でこの時の心境を「私は一瞬、子どものことが頭に浮かびましたが、私も小さいときから親から離れて苦労しており、子どもだけ生き残らせても逆に残酷だと思い、殺害を許可した」と語っている。
念のため早川と新実がブルーバードで洋光台駅に向かい、他の4人は坂本弁護士宅近くに停めたビッグホーン内で待機し、最終電車まで待ったが坂本弁護士は現れず家にいると判断し、翌11月4日午前3時頃自宅に侵入、寝ている坂本弁護士一家を発見した。
抵抗が激しく中川が手間取ったため誰にも塩化カリウムをしっかり打てず、窒息させて一家全員を殺害した。
坂本弁護士
端本に馬乗りされ、顎を6、7回殴られた後、岡﨑に首、早川に足を押さえられた。実行犯らに「金か、金ならやる」と言った。中川から尻に塩化カリウムを打たれたが筋肉注射だったため効果が無く、2、3回ほどやり直したが針が曲がった。その後窒息死。
坂本弁護士の妻
新実に馬乗りされる、上半身を蹴られるなどの暴行を受け、端本に腹を蹴り飛ばされ、膝落としをされた後、村井、早川、中川に首を絞められる。中川から塩化カリウムも打たれた。「子どもだけは」と命乞いをしたり、村井の指を噛んだりと抵抗したが、窒息死。
坂本弁護士の長男(当時1歳)
泣き出したため、中川と新実に鼻口を押さえつけられ、窒息死。検察側は顔と腹を殴られたとしているが、弁護側は否定した。
遺体はビッグホーンで上九一色村へ運ばれた。その後ブルーバード、ビッグホーン、マツダ・ボンゴに分け、坂本弁護士は新潟県西頸城郡名立町(現・上越市)の山中に、妻は富山県魚津市別又の林道別又僧ヶ岳線脇に、長男は長野県大町市日向山の山中に、服を脱がして埋められた。遺体の処理は乱暴であり、村井は歯型から身元がわからぬように歯形を潰そうと提案、坂本弁護士の歯をツルハシで叩きつけたり、岡﨑・村井・新実がツルハシや石で坂本弁護士の顔を潰そうとしたりしていた。遺棄現場の新潟で景気付けに早川が買ってきたベニズワイガニの殻と一緒にゴミ同然に埋められた。ビッグホーンとブルーバードは海中投棄する予定であったが中止された。
_____________________________
コンディション:わずかないたみございます。全体的に概ね良好です。
コンディション欄に特記な場合は、本体以外の付属品はございません。
商品管理のため画像に付箋が映っている場合がございます。
新しいシステム移行のため、
三菱東京UFJ銀行、ジャパンネットバンク、楽天銀行、新生銀行宛のお振込は現在停止しております。
何卒ご理解のほどお願いいたします。