【日本剣道形 剣の理法の神髄 より一部紹介】
剣道の稽古と形とは車の両輪である。相ともに助け合って、剣道はより高いものとなる。形は稽古のごとく、稽古は形のごとく修練することが大切である。
日本剣道形は大日本帝国剣道形を原文としている。ここでは、剣道愛好者の形の修練に役立てるため、やさしい文体に書き改め、わかりやすく解説した。
形は剣道のエキスである
形に対する尊敬の念、信頼において、昔の武人たちは、今日のわたしたちの想像を絶するほどの強いものをもっていた。そのことの現われとして、ある時期、それも相当の長い年月、剣の修練即形の修練であった。形はかれらにとって剣道そのものであった。
その意味から、形はつぎのような使命をもっていたといえる。
一、刀の使用法および作法の基本規範である。
二、刀による攻撃と防御の理合を示す。
そして、各流各派の祖が命をかけ、心血をそそいで作ったものであるから、その修練には、剣祖に対すると同様の尊敬の念をもって行なったと思われる。
全日本剣道連盟が正式に採用している日本剣道形にもこのことは通ずる。
正しい剣道を修得しようとするならば、剣道の稽古と同様の熱意をもって、形の修練にもあたらなければならない。
この日本剣道形について、現代剣道とかけ離れた点が多いとの説も一部にはあるが、表面の動作のみに関しての論であって、本質を見ていない証拠である。
日本剣道形は、その根底に、各流各派を代表する古流のエキスが盛り込まれているのであるから、じつに優秀なものである。このことを念頭におき、剣の精髄をきわめるには、まず、形の神髄をつかむことが先決であるとの信念をもつべきである。
また形を演練する二人を打太刀、仕太刀と呼ぶが、打太刀は仕太刀に対して指導的であり、それだけに仕太刀よりも難しいとされている。したがって、公式の場で形をするときは必ず上級者が打太刀をつとめるならわしである。そして、打太刀はできるだけ仕太刀を引き立て。仕太刀をいかすようにリードをする。仕太刀はまた打太刀のリードにしたがって。心不乱に形を打つ。この両者の呼吸がぴったりと合ったとき、見事な形が演じられるのである。両者の心と心との間に張られた目に見えない琴線がいつも緊張し、以心伝心であることか人切である。(以下略)
【第一章 近代剣道百年のあゆみ より一部紹介】
近代剣道百年の歴史は、あたかも消えかかる灯を熱意と工夫でともし続けるドラマを見るようである。明治維新という近代化の波に呑み込まれそうになると、撃剣興行という変身で生き残る。太平洋戦争の敗戦による占領下の禁止の日々には撓競技(しないきょうぎ)という工夫を凝らす。そして、数々の試練を乗り越え、日本文化の精華を担いつつ、日本剣道は、今、世界のスポーツとして大きく花開く。
撃剣興行で息を吹きかえす
「撃剣の稽古をなす者は国事犯嫌疑者」
明治新政府が樹立されると、旧徳川政権の方針を一変させていく政策がつぎつぎにとられていった。たとえば、否決されはしたが、明治二年(一八六九)、森有礼(のち文部大臣)がはやばやと「廃刀令」を主張した。
翌三年、一般庶民の帯刀が禁止され、さらにその翌年には、士族つまり旧武士も「脱刀勝手たるべし」という、いわゆる「脱刀令」が公布された。
ついで明治丘年、徴兵令が施行され、国民皆兵の名のもとに近代化された軍隊が発足することとなり、ここに武士の役目は完全に消滅したのである。
こうした事情を背景に、新しい日本国軍建設の中心的役割を果たした山県有朋(のち首相)の建議により、明治九年三月、「廃刀令」が実施されて、大礼服着用者、軍人、警察官以外の者の帯刀は、いっさい禁止されることとなった。
その一方で、政府の音頭取りによる近代化はどんどん進められていったから、当時の風潮としては、廃刀どころか剣道そのものが、「野蛮だった過去の遺物」ときめつけられ、稽古すら禁止しようという傾向が生まれた。たとえば京都府では、
「撃剣の稽古をなす者は国事犯嫌疑者と認める」
という知事の布告が出されて、公然と禁止されてしまったほどである。(以下略)
【第二章 近代の剣聖 より一部紹介】
明治十三年(一八八〇)に春風館道場を開いた維新の功労者・山岡鉄舟から温厚篤実な人柄で諸派を統合、日本の剣道界を一本にまとめた持田盛二まで、ここに登場する六人は、明治から大正、昭和へと移り変わる歴史の流れのなかで、抜きんでた存在として剣道界をリードした達人、名大たちである。その歩んだ人生、人間像は、そのまま明治以降の生きた近代剣道史であり、後進の者の鑑といえよう。
ボロ鉄から鬼鉄へ―山岡鉄舟
・西郷に直談判で平和交渉を成功させた
幕末から明治にかけて登場した剣士のなかで、後世に最も強い影響を残した人は、鉄舟・山岡鉄太郎であろう。
鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とならんで幕末の三舟とよばれて早くからその偉才をうたわれた。その最も大きな功績は、江戸城攻略をめざして進軍していた官軍に単身乗りこんで平和交渉を成功させたことである。
当時、鉄舟は、江戸幕府の講武所の剣術指南役兼浪士取締役の任にあたっていたが、幕府の若年寄兼陸軍総督であった勝海舟にその才能を認められて、官軍の総督・西郷隆盛と勝海舟との和平会談を成立させる橋渡しの使者を命じられた。
そこで鉄舟は、敗走する幕府軍を追って東へ東へと進撃する官軍に接触するため、東海道を西に向かい、官軍が静岡に到着したときに、その陣営に単身乗りこんで西郷に会うことに成功した。
官軍の総参謀として幕府軍をことごとく制圧し、明治維新を成立させた最大の功労者として「大西郷」と呼ばれた西郷隆盛でさえ、決死の覚悟で乗りこんできた山岡鉄舟の胆力、応対のみごとさにすっかり驚き、「生命も名誉も金もいらぬ男は始末に困るよ」といったともいう。
官軍のほうは幕府側を、朝廷に刃向かう賊軍とみなし、将軍は賊軍の長として処断するつもりでいたところへ、降伏の交渉ではなく和平の交渉の場を設定するためにやってきたのであるから、(以下略)
【第三章 わたしの剣道人生 伊保清次範士八段・中京大学教授 より一部紹介】
心技体というが、剣道にはそれなりのわざをきわめる努力が大事だし、十分にわざを発揮できるだけの体力も必要だ。しかし、大切なのは、心であり、気力である。気力が真に充実していなければ、せっかくの体力もわざも空転してしまう。頭ではわかっているつもりでも、それをほんとうに会得するまでは、それこそ血のにじむような修行が必要だ。わたしが伝えたいのは、この一事につきるような気がする。
住吉少年剣道会へ
「證 伊保清次 剣道五級下ヲ證ス 昭和五年十ー月十六日 住吉少年剣道会代表者末永時一」
これが、剣道関係でわたしがもらった証書第一号である。いや通信簿以外にはもらったことのないわたしにとって、生まれて初めて見る証書だった。小学校四年生のときだった。剣道のことは何も知らない母は、ありがたがって神棚にそなえたし、左官屋の職人だった父もご同様だったから「よくやった、よくやった」とほめてくれた。
しかし、じつはこの「五級下」というのは最も低い位なのである。(以下略)
【第四章 名人、達人の秘術の結晶 より一部紹介】
大正元年(一九一ニ)十月制定された「大日本帝国剣道形」は、古来、名人、達人といわれた剣士たち、各流各派の祖が世に残した秘術の結晶であり、まさに、“剣の理法の神髄”といえるものである。
ここにあげる写真は、当時、名人といわれた高野佐三郎と中山博道が、それぞれ打太刀、仕太刀で形を演じたもので、今日では非常に貴重な資料でもある。
「大日本帝国剣道形」の誕生
明治維新後の日本政府は、武士の帯刀を禁じ、ちょん髷を廃止し、万事洋風の政策をとった。欧米文化に追いつき追いこせのかけ声によって、急速な発展をとげようとした。そのため、学校教育もすべて洋風に統一され、江戸時代には武士の教養に欠かせなかった武道も、民間の道場で細々とつづけられるだけというありさまだった。
こうした西洋一辺倒の風潮も、明治三十七、八年(一九〇四~五)の日露戦争の勝利で、大きく修正されるようになる。西洋人との戦争に勝ったことにより、日本人としての自信が生まれるとともに、日本精神の作興が急務とされるようになってきた。
明治四十ー年(一九〇八)、当時の日本帝国議会が、柔道と剣道とを、中等学校(当時は、四年制ないし五年制)の正課とする案を可決したのも、こうした社会背景があったからである。そして、明治四十四年(一九一二から正式に、中等学校の正課の一つとして授業に組み入れられることになった。
しかし、当時の町の道場では、江戸時代からひきつがれてきた各流派が、それぞれの流儀による形を門弟に教えてきたので、全国的に統一された形がない。それでは学校教育の立場一場上、万事に不都合がおこるので、早急に、統一された形を制定する必要が生じた。(以下略)