【五姓田義松】
明治期に活躍した画家。1855年、洋画家である五姓田芳柳の次男として江戸で生まれる。1865年、チャールズ・ワーグマンに師事。1874年、川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師として勤務。1876年、工部美術学校に入学しアントニオ・フォンタネージに師事するが翌1877年に退学。同年、第1回内国勧業博覧会の洋画部門に「阿部川富士図」「自画像」を出品し、鳳紋賞を受賞。これは洋画家としては最高賞である。1878年より明治天皇の御付画家として北陸・東海地方の行幸に同行した。1880年に渡仏し、レオン・ボナに師事。日本人初のサロン・ド・パリ入選作家となる。1889年、アメリカ合衆国を経由して帰国し、明治美術会の創立に携わる。日清戦争にも従軍した。1915年、横浜の自宅で死去。 墓は横浜市の日野公園墓地にある。
【太田時敏】
江戸時代後期の盛岡藩士。新渡戸稲造の叔父。明治維新前の名前は太田練八郎。三本木新田御用掛。維新後は東京で洋品店を経営し、南部家の家令や岩手県下の郡長を務めた。新渡戸傳の四男として生まれ、盛岡藩士の太田金五郎の養子となる。兄に新渡戸十次郎がおり、後にその子の新渡戸稲造を養子とした。文久3年(1863年)には三本木新田御用掛を仰せ付けられる。1868年の秋田戦争では、目付参謀として参加し、毛馬内館二の丸南側の御官所前で戦書を読み上げ、また大館城攻城戦では大館城東門に人やぐらを組み、大館城一番乗りを果たす。維新後は東京で「時敏堂」という洋品店を経営[1][4]。警視庁警部も務めた。教育の重要性を認識し、親が早世していた甥の新渡戸稲造を東京に呼び寄せ自らの養子として教育を施した。稲造は叔父の時敏を自著『武士道』のモデルとしており、同書の扉には時敏への献辞が書かれている。1915年1月18日に病気にかかり、見舞いに来た人もいたが、翌々日に死去。
【作品状態】
絹本 角軸(罅) 真筆保証(真作) 裂表装 ウブ幅 杉箱入 中身寸法120×45.5 薄い倉ジミ等あり 幅自体しっかりしています よろしくお願い致します
※ご入札は画像説明をよくご覧になりご納得の上でお願いします
※自己紹介のとおりタイトルや説明に真筆保証と記載したものは正式な鑑定機関が通らなかった場合返品に応じます
※何か解からない事がございましたら入札する前にご質問下さい
※
極めて稀なのですが落札後、
連絡がなかったり、お金を支払わないといった事が御座いましたので
今後は、評価が新規であったり悪い評価の多い方は
入札を取り消しさせて頂く場合が御座います
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上記のような方は、
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※※※2021年8月15日より発送は全て『佐川急便』にていたします
私が出品する商品は古いものが多く、修理や修復が必要な場合がございますが、ご理解ご納得の上ご入札お願いします
ヤマト運輸や佐川急便など通常配送の場合、掛け軸など1点モノの商品が配送中に破損した場合、補償が利かないそうです(軸先、箱、額、屏風、ガラスなど)
配送中のトラブルは、私のほうでも責任を負いかねますのでご理解ください
どうしても補償が必要な方は、美術品専門の配送方法もございますが、配送料が高額になります
商品名稱 : | 【掛け軸】 五姓田義松 肖像画 「太田時敏像」 新渡戸稲造の叔父 真作 真筆保証 絹本 五姓田芳柳 盛岡藩士 洋画家 |
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