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■岡長平 2011年発行 ■A5判 本文63p (「はしがき」より) 本書は、幕末の旗本で、明治になってからはジャーナリストとして活躍した成島柳北の旅日記『航薇日記』(「黄薇(吉備)に航せし時の日記」の意)の原文に、読みや注釈を加え、内容を理解しやすくして収録したものである。 『航薇日記』は、成島柳北が、明治二年十月から十一月にかけて、甥に当たる戸川達穀(妹尾戸川氏七代)に誘われ、その領地備中・妹尾(現岡山市南区妹尾)に旅行したときの旅日記である。柳北の創刊した雑誌「花月新誌」に、明治十二年から十四年にかけて掲載された。 明治初頭の岡山の様子を記録した紀行文としてよく知られているものであり、岡山県の郷土史誌に様々な形で引用されている。 柳北の継室永井氏は、深川の旗本・永井彦兵衛の娘で、姉が妹尾戸川氏六代の達本に嫁いでおり、これにより妹尾戸川氏と縁戚となった。 妹尾戸川氏の初代は安成で、庭瀬藩二代藩主正安の次男である。寛文九(一六六九)年、一五〇〇石の分知を受けて独立、陣屋を妹尾に置き、明治維新まで八代続いた。 『航薇日記』に登場する達本は六代であり、隠居して貫好と名を改めた。また、七代の達穀は成斎と号した。 達本の妻は、柳北の妻の姉であるので、柳北は達本の義理の弟であり、達本の長男達穀は柳北の甥となることは先程述べたが、この柳北と妹尾戸川氏との関係については誤った記述が多い。 「義兄石(ママ)川成斎の領地…」(前掲「航薇日記」『明治文学全集 四』)とあったり、「柳北の奥さんは達本の奥さんの姉です。」(『備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史』戸川時代研究会 二〇〇二年)とあったり、「妻の里なる妹尾」(岡長平「航薇日記」『岡山風土記』岡山日日新聞社 一九七七年)とあったり、様々である。 しかし、本人が「ここに成斎が父貫好、その室永氏居れり、永氏はわが亡妻の姉なり」(本文14ページ)と書いているので間違いないであろう。ちなみに、柳北は明治十七年四十八歳で、達本は明治十六年七十五歳で没しているので、義理の兄弟といいながら、ほぼ親子程度の年の差があった。甥に当たる達穀の年齢は不詳だが、達本の実子であることから、柳北と同輩の年齢だったと推測される。このことは、本文での両者のやりとりからも読み取れるところである。 『航薇日記』の本文を収録するものには、「花月新誌」本誌を除き、次の四種がある。 ①「航薇日記」「花月新誌(複製)第五巻~第六巻」所収(ゆまに書房 一九八四年) 影印による復刻。影印なので当時の用字そのままを確認できるが、反面、変体仮名を用いるなど、読みにくい点は否めない。 ②「航薇日記」『柳北全集』(文芸倶楽部 第三巻第九編臨時増刊)所収(博文館 一八九七年) 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されている。①を元に収録されたものだが、読点が打たれていて読みやすい。 ③「航薇日記」木村毅編『瀬戸内海・中国路』所収(宝文館 一九五九年) 新字体を用い、読点に加え文末に句点も打つ。段落行頭を一字下げるなど四者の中で最も読みやすいが、誤植も多い。②を底本としている。 ④前掲「航薇日記」『明治文学全集 四』所収(筑摩書房 一九六九年) 旧字を用い読点は打っていない。資料①、②に比べ活字がきれいなこと、漢詩に送りがな、返り点が付されていて読みやすい。 しかし、これらはいずれも、単行本や雑誌の一内容として収録されているものであり、日記全文を単独で収録するものではない。郷土を知る資料として、読みやすい形で一冊にこれを翻刻することは、それなりの意義があるのではないかと考えた次第である。 本書は、前記四種の資料を元に、異同のある場合は比較検討し、より正確と考えられる内容を翻刻し収録したものである。(以下略) >