注意事項
商品所在地距離海外收貨處(神奈川)較遠,請注意日本運費
google翻譯
Excite翻譯
google & Excite翻譯僅供參考,詳細問題說明請使用商品問與答
この『書簡』は縦二七・三センチメートル、横一九・八センチメートルの袋とじ装で、扉には「漆谷先生書 書簡 □□氏」と三行に書かれ、本文は墨付八十七枚、小さな亀甲型を空押しした縹色の表紙左上部に「書簡 全」と書かれた題箋が貼られている。 讃岐の歴史の中で「書聖」と称された人物が二人いる。一人は空海であり、もう一人は後藤漆谷(1749~1831)である。漆谷は高松の豪商の家に生まれ、幼いころから学問を好み、深井鶏林、後藤芝山に師事、20歳を過ぎるころには芝山門下の逸材と賞賛されるようになった。漆谷の書は王羲之の正統を継ぎ、元・明の書法を加えて優美であり、名前は全国に知られ、同年代の画人・長町竹石と並び、讃岐文人の双璧と謳われた。人柄は温厚、謙虚で、彼の周りには常に多くの人が集まり、早くから讃岐の風流人の中枢として活躍した。交流のあった文人としては、大坂の木村蒹葭堂、備後の頼山陽、菅茶山、讃岐人で江戸で活躍した菊池五山をはじめ、細川林谷、皆川淇園らがいる。還暦を過ぎると家業を子の弘基に譲り、老松園を居として悠々自適の生活を送った。それとともに漆谷を慕って訪れる人が益々多くなり、老松園は風雅の道の一大拠点となったという。墓碑銘には山田鹿庭、梶原籃渠、長町竹石、手塚鹿渓、久家暢斎の名があり、他にも芝山門の先輩・柴野栗山、志度の清僧・竹林上人、浄願寺住職・秀峰、素封家・揚分潮らとの交流があった。『書簡』の筆蹟は流麗で、滞るところのない見事な草書であるが漆谷の署名、落款等はない。県内でよく見かける晩年の漆谷の筆蹟とはやや趣を異にするから、表題どおり漆谷の書とすれば、筆力の充実した壮年期のものかもしれない。 彼の作品は、高松市歴史資料館の「後藤漆谷の書跡とその周辺」に紹介されているが、多くは戦火で失われたものか作品としては掛軸が多く、このように製本された作品である往来物は少ないようである。この『書簡』は後藤漆谷を物語るものとしては良品である。 >