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「三井高堅旧蔵。 水戸藩主徳川斉昭(漢詩) 劉鐡雲(書)下郷益太郎(刻) 大正戌午年(1918年)懐石折敷独酌の盆、茶盆」 幅34×20.5 高さ2.4㎝
水戸藩主徳川斉昭(烈公)は光圀(義公)と合わせ「義烈両公」と尊称され、水戸偕楽園、偕楽園焼を始めた石州流の茶人。この斉昭が詠んだ詩に「茶対」「茶説」があり、茶の湯人の心構えを説いた漢詩として有名です。
その漢詩にいたく感銘した中国の「劉鐡雲」こと「劉鶚」(1857~1909)。彼は中国清朝末の流行作家でありましたが、「治水、金石、甲骨文字、碑版」研究の第一人者でもありました。劉鐡雲(劉鶚)が徳川斉昭の「茶対」「茶説」を書写し、鐡雲の揮毫を、親交があった下郷益太郎(蘭山)(1871~?)が、非業の死を遂げた鐡雲を偲んで大正戌午年(1918年)に刻した盆です。
のち、元より鐡雲と交流のあった三井高堅(1867~1945)に収められ、高堅からさらに、豪商で水戸の近代大茶人、七代大高織右衛門守之(育斎)の「延年楼」の所蔵と長らくなりました。大高織右衛門守之は、偕楽園にゆかりある徳川家茶道指南役石州流「水戸何陋会」を創設した人。初代水戸商工会議所会頭をつとめた人。
~斉昭漢詩
「或問子學茶法乎、吾對曰未也、嘗聞之、其味也苦而甘、其也而清、其室也樸而閑、其庭也隘而幽、其交也睦而禮、能樂而不奢、如此而已矣、其反及之者、所亞吾不知也。」
~訳
「ある時、先生が茶を学んだか?と聞くので、私はまだだと答えた。聞くところ「茶は味苦く甘く、器は簡素で葉には清香がある。茶室は素朴、静かで、狭いが幽玄である。茶の湯の交流は親しき中にも礼儀があり、金はかけなくとも楽しく、茶はそのように決しておごらないものだ」と。こういう道のものだそうで、それ以外を茶としては知らない。」
この斉昭自筆漢詩は茶室の扁額として、斉昭自身が手掛けた「偕楽園 好文亭茶室 何陋庵(かろうあん)」に現在も掛かっております。
詩を書写した「劉鐡雲」こと「劉鶚」は、清末に金石、甲骨文字、碑版を研究しつつ、当時の中国流行作家。日本の文化人と交流深く、彼の小説には多くの日本人が登場します。刻をした下郷益太郎とは、篆刻家の河井廬(1871~1945)を介して親交し、晩年は飢餓民救済で清朝王府と対立。流刑され現在のウイグルで1909年死去。人気を博した清朝の深刻な社会弊害を描いた小説「老残遊記」を遺しつつ、甲骨文字研究の鉄板「鐡雲蔵亀」は後の学者に必読常版の書として尊ばれました。
刻をした下郷益太郎(蘭山)は、前述の通り、河井廬を介して劉鐡雲と親交。下郷家は後にSony盛田家を輩出することになる名古屋素封家の文人家系で、写真家の下郷羊雄は益太郎の子。益太郎は多くの文化人や画家交流。本田錦吉郎、猪瀬東寧、冨田渓仙らと親しく、また枢密院元老院議員で漢詩人、書家で有名な巖谷一六。篆刻家の河井廬らを介して三井高堅と交流しました。三井高堅の篆刻印には、河井廬が刻んだものが現在数点遺されております。
斉昭は「茶説」の中で「得難い宝の茶器ではなく、簡単に手に入る器で堂々と茶をする者こそ真の高貴、富貴者であり、貴賎を問わぬ茶を交われる」と説きました。この盆はそれに応えるかのように簡素な欅材を用いた盆です。
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